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藍民芸館

「幻灯」

2010年7月号

月刊「藍民芸館」

 今月7月17日(土)〜来月8月22日(日)の夏の特別展 『明治・大正 懐かしの幻灯』では 開館以来、初めて幻灯を取り上げ、明治・大正時代の貴重な版を多数展示いたします。

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それに因み コレクター松田政秀が幻灯について書いたものを原文のまま、7・8月に分けてご紹介いたします。

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        「明治幻燈漫筆」    松田政秀

 私が幻灯の種板の蒐集をはじめたのは昭和十年頃であった。今日の切手蒐集家のように一枚いくらになるとか、だんだん値が上がるなどという根性からではない。

そうかといって、芸術的価値があるとか滅びゆくものを民俗資料として残そうなどと思った訳でもなく、ただめずらしく面白いと、興味を持って蒐集し始めただけであった。

 いま考えてみると、当時ならば、いくらでも集まりそうに思うが、これは今日も昔も変らず、これ程蒐集困難な代物はない。もっとも時間と閑があって、毎日毎日日本中探し歩いていれば、たまには巡り会えようが、そんな身分でもなし、ただじっと時間をかけて辛抱づよく現れるのを待っているような有様であった。

 何故こんなに蒐集困難なのであろうか。それは幻灯の種板には、貨幣価値がなかったからである。高く売れ、又欲しがる者が沢山いれば、人々も大切にし、又市場にも出、道具屋も見つけ出して来ようが、欲しがるのは私位のもので、他には全く仲間がなかったから集まらない訳であった。これが蒐集困難の第一原因である。

 また貨幣価値がない上に、幻灯板はガラスで重く、かさばる上に、危険物でもあったし、高価で数量も少なかった。持っている人も、子供には危険であずけられず、割って川に捨てたりしてしまったようである。これが前者につぐ第二の重大な原因であった。

 幻灯が発明され、また日本に入ったのはいつのことであろうか。それは定かではない。

明治三十九年に出た富山房の「日本家庭大百科事典」には、「西暦一六六五年、独逸人キルヘンの発明にかかり-----中略、但しその我が国に入来しは何時の頃か詳らかならず。」と書き、また、これで映るのかと思うほど幼稚な図をのせ、原理構造を説明している。

又、平凡社の「大百科事典」には「幻灯、マジック・ランタン、初めて世に現れたのは一六四六年-----」とあるから、日本に入ったのは明治の文明開化の頃でもあろうか、とにかく詳らかではない。

 私の所にある幻灯の種板は紙のものはなく全部ガラスで、寸法は大別すると下の如くである。  大 8.2cm × 10.2cm   中 6cm × 6cm   小 4cm × 4cm

       8.2cm × 8.2cm      5cm × 5cm 

大は、大がかりの機械でしか映写出来ず、浅草や、其の他の劇場などで観覧料をとって見せるか、お役所で、農業の指導とか、衛生思想の普及などに学校等を会場として映写したものであろう。

 中は、上に順じて、携帯便利な為に地方巡業に使用したり、寺院などで布教客寄せ等に使ったり、当時のブルジュアのハイカラさんが買い求めて写したりしたものであろう。

 小は、営業用ではなく、子供の玩具で、たまには中に順じて使用されたこともあったようである。この他、長いものや、いろいろカラクリをした異形のものもあった。

 幻灯を映写するには、映写機と、種板と、光源と、幕が必ず必要である。このうち、特に光学機械は最近急に発達し、映写機のレンズにしても、又機械にしても、光源にしても,

映写幕にしても、明治の比ではない。ただ種板だけは、明治の物の方がはるかに優秀である。種板は、写真乾板を使ったもの、直接絵を描いたもの、コンニャク版のもの等いろいろあるが、写真も一枚一枚透明絵具で手彩色したものが大部分で、精巧を極め、今作るとなると、全くカラーヒルムの比ではない程高価につくであろう。

 前に書いたように幻灯の渡来に関して詳らかではないが、その流行は、種板の内容等で大体の推定はつく。昔の流行は今日の流行とは異なって、その伝播速度はいたって緩慢であった。東京の流行が日本の津々浦々まで及ぶ頃には、もう東京では下火になっている頃でもある。一つのものが亡んで次のものが出るのではない。其の流行は緩慢であると同時にダブリも大きかったのである。活動写真が流行しても、尚幻灯はその命脈を保っていたのであった。      次回へ。

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